出っぱり石の恩がえし

 昔々、このあたりが摂津の国、筒井郷大日村と呼ばれていた頃のお話です。
 この大日村は、みんな仲の良い人たちばかりで、まずしいけれど、楽しい毎日を送っていました。
 村では、六兵衛じいさまが村長です。六兵衛じいさまを中心として、一生懸命、村人たちは仕事にはげんでいました。
 しかし、この大日村に、ただひとつ頭をかかえる問題がありました。
 それは、手におえない、いたずら小僧の、みのる坊という、子供のことでした。
 村を通る旅人に、木の上から悪さをしたり、川の水をかけたり、道路をかれ木で通せんぼをしたりと、やりたい放題です。

 うわさは広まり、遠まわりをして、隣村の道を通る旅人が出来、最近では、大日村には、あまり旅人は通らなくなっていました。
 このままではいけないと、村人が集まり、話し合いの末、みのる坊をつかまえて、おしおきをして、悪さをさせないように決めたのですが、あまりのすばしっこさで、みのる坊をつかまえることすらできません。
 又、村長の六兵衛じいさまは、いつも、「ほっておきなさい、そのうち大きくなったら自然に悪さはしなくなるから」と、かばいます。

 実は、みのる坊の父母は、みのる坊が生まれてすぐ、村をおそった、生田川の鉄砲水で死んでしまったのです。
 川のそばにあった、みのる坊の家は、鉄砲水が出たときに、大きくつぶれてしまいました。
 ところが、つぶれたその家が、堤防のかわりをしてくれたおかげで、村は助かったのです。その事を、六兵衛じいさまは、感謝しているので、みのる坊を、温かく見守っているのです。

 ある日、村をふらふらと歩いている旅人がいました。何日も、ごはんを食べていないのか、今にも倒れてしまいそうです。

 それを見ていたみのる坊は、旅人に「おじさん、こっちの道が近道だよ」と、石がいっぱいの、歩きにくい、村では「出っぱり石の道」呼ばれ、旅人達がさけて通る道を教えました。
 案のじょう、ふらふらの旅人は出っぱり石につまづいて、足の骨を折ってしまい、動けなくなってしまいました。
 旅人は、運悪く、その晩からふり始めた雨の中で、3日間も苦しみ死んでしまいそうになっていました。
 大雨がふりつづくので、川のようすを見に来た六兵衛じいさまと、村人が、倒れて息絶え絶えの旅人を見つけ、すぐに六兵衛じいさまの家に運ばれました。見つけられていなければ旅人は大変な事になっていたでしょう。旅人は、みんなに介抱されました。

 良い人ばかりの大日村のことです。手厚く、やさしく、何日も看病されたおかげで、旅人は少しづつ元気を取り戻してきました。
 ある日、口が利けるようになった旅人に、村人の一人が、どうして、あんな出っぱり石の道にまよいこんだのかと聞くと、旅人は、「木の上から、子供がこの道が近道だ」と、教えてくれたことを、とぎれとぎれに話をしました。六兵衛じいさまと、村の人たちは、みのる坊のしわざだとすぐわかりました。
 やさしい六兵衛じいさまと、村の人たちも、今度ばかりは、みのる坊を、しかり、こらしめなければならないと思いました。
 そして、村人総出でみのる坊をつかまえました。
 みのる坊を反省させるには、大日如来様が祀られている、大日寺に閉じこめるのが良いと言うことで、手足を縛られたみのる坊は、大日寺の如来様の前に置き去りにされてしまいました。
 するとその晩、みのる坊の前に、大日如来様が現れて「お前のいたずらは、あまりにもひどすぎる、村人たちも旅人も苦しんでおり、お前にそれがわかる様に、お前も暫く、出っぱり石の道の、石になりなさい」とお告げがあり、みのる坊は石にされてしまいました。
 石にされたみのる坊が気がつくと、みんなが歩くのに困っている出っぱり石の道端に置かれています。何故か、声は出せますが動く事ができません。
 村人達は、大日寺から、みのる坊が消えてしまった上に、出っぱり石の道に、言葉をしゃべる石が現れ、自分がみのる坊だと言うので、みのる坊が石になってしまったとすぐに村中に知れました。
 その事をきいた旅人は、驚いてしまい「自分は、石につまずいて死にそうになったのではなく、何日も食事をしておらず、村を通る前から、あと何日かで死んでしまいそうだった」ことを村人に話しました。
 又、あの出っぱり石につまづいたから、こうして皆様からの温かい介抱を受けられたので、命の恩人は、みのる坊と言う子供なのかも知れないと改めて説明をし、村の人達にお礼をいいました。
 旅人は、村中の人のおかげですっかり元気になり、いよいよ旅立ちの日が来ました。
「自分のふる里は、丹波の国、篠山郷西紀です、ふる里へ帰りましたら、一生懸命働き、きっとご恩がえしにまいります」と、言う言葉を残して旅立ちました。
 一方、石になったみのる坊は、さすがに反省をして、出っぱり石の道で、自分だけが声を出せる事から、他の石たちに、なるだけ道の端の方にかたまり人や牛が通りやすくなるように、石たちに少しずつ移動するようお願いしました。

 しばらくして、又、大日村に大雨が何日も何日もふりつづき、生田川の堤防がこわれてしまいそうになりました。出っぱり石の道にひびいてくる、不気味な音で、石のみのる坊は、てっぽう水が出そうな事がことがわかりました。石のみのる坊は、早くなんとかしないといけないと考え、ついに自分で村を守ろうとしました。
 それは、出っぱり石の道にある、たくさんの石たちに、こわれそうな堤防に集まってくれと頼んだのです。するとどうでしょう、普段はほとんどど動かない、出っぱり石たちは「ゴトゴトゴトゴト」と、動き出し、石のみのる坊のお願いを聞いてくれるではありませんか。何千と言う数の石達が、みのる坊のお願いした生田川へ向かいました。みのる坊がお願いしたように、堤防の下に集まった石たちは、どんどんと積み重なっていくではありませんか、そしてついに、大きくがんじょうな堤防になったのです。石でできた堤防ですから、水の勢いにも負けず、大日村は守られたのです。
 村人たちは、何が起きたのか分かりませんが、村中の人達は喜びました。そして、かん声をあげました。石になったみのる坊も村人の喜びを見てにっこりとほほえみました。
 それを見ていた、大日如来様も、よくがんばったと、みのる坊を石から、もとの子供にもどしました。それ以来、みのる坊はすっかり改心し、大人になってからは、六兵衛じいさまを助け、大日村を豊かで明るい村にしました。
 又、ふる里にもどった、西紀の旅人は、後年大出世をし、あの時の、出っぱり石を、おまつりするお社を建立し、恩がえしをしてくれました。

 現在、「大日六商店街」があるのは、六兵衛じいさまの名前から付けられた名前で、「大日にぎわい広場」に、いまでも、あの時の出っぱり石の道の石が置いてある事をご存じですか。
 大日六商店街にお越しのおりには、ぜひ出っぱり石をなでて下さい。
 幸福で楽しい日々がいただけますよ。又、丹波篠山西紀の皆様とのふれあいの交流は今でも続いています。