五郎太の木

 昔々、摂津の本山の在に、たいへん親孝行な男が住んでいた。その親孝行ぶりは、近在のもので知らない者はいなかった。みんなからは「三国一の親孝行者だ」と云われるようになると。自分でも密かにそう思うようになってきた。

 ある日、旅の行商の男から、「うはらの端の筒井の村に、それはそれは、たいそう親孝行な者がおる。名前は『筒井の五郎太』と言うそうじゃ」と聞かされてから毎晩、夜も眠れぬほどその五郎太のことが気がかりになってきた。ある日、意を決して、五郎太と言う男がどんな親孝行をしているか見に行くことにした。

 半日掛かりで筒井の村の南端の、五郎太の家にたどりついた。家の中をのぞくと老婆が忙しそうに立ち働いている。
 そのままでは見つかってしまうので庭に生えている木の上に登り、家の様子を見ることにした。やがて五郎太らしき男が山のような柴を担いで帰ってきた。

 柴をきびやの横に置き、縁側に腰を下ろすと、足を投げ出した。そうすると先の老婆がすすぎ水を持ってきて男の足を洗い始めた。やがて乾いた布で足を拭き部屋に入るように言った。男が部屋に入ると、老婆は男の肩をもみ始めた。男は気持ち良さそうに、背中を押してもらっていたがやがて「おっかあ、もういいぞ、楽になった」と縁側に出てきて手足をもう一度のばした。
 その年老いた母親は「そうか、そうか。それではすぐにゆうげの支度をするでな!」と言って奥に行った。

 この一部始終を木の上から見ていた男は、あまりの腹立たしさに思わず木から落ちてしまった。
 その足で縁側に座っている五郎太に「この界隈に親孝行が住んでいると聞いたので半日掛かりでやってきたのにこの親不孝ぶりはなんじゃ。聞くと見るとでは大違いじゃ」と噛みつかんばかりに詰め寄った。

 男のけんまくに驚いた五郎太は、やがて事の次第を飲み込み、男に部屋の中に入って座るようにすすめた。
 五郎太はその男に話して聞かせた。「おっかあはな!、わしを世話するのが何よりも、うれしいんじゃ」成り行きを見ていた五郎太の母親も、そばに来て白湯(さゆ)をすすめながら「そうじゃ、子供は幾ら大きくなっても、ワシの子供じゃ。こどもの頃と同じように世話をするのがワシの楽しみじゃ」とにこにこと、そういうと、ゆうげの支度をするために奥へ行った。
 「わしはなあ、この仕事ならおっかあに出来そうやと思うたら頼むんじゃ。ほんで後でようやってくれた、おっかあのお陰でほんまに助かるわ、ありがとうよと、言ってやるんじゃ」と母親に聞こえないよう小声で男に話した。「役に立つたことがほんまにうれしんじゃろ、毎日元気でよう働いてくれる。わしもな、おっかあの身体の調子、気を付けてみてるんじゃが、歳やな。だいぶんしんどそうじゃ」とも言った、その男は小さくなって五郎太の話を聞いた。

 その男は在にもどると、さっそく五郎太から聞いたとおりにした。どんなことでも母親が出来そうなことは母親に頼むことにした。
 そして「おっかあ、ほんまにありがとう。おっかあがいてくれるお陰で大助かりや」と言うのを忘れなかった。近所の仕事でも、母親の得意なことは母親にさせて貰うように頼み込んだ。近所の者も「さすが、おばあちゃんや、うまいことできてる」とお礼を言ってくれるようになった。

 それから、その母親は、血色も良くなり増々元気で長生きした。男も気だての良い妻を向かえることができ、家族揃っていつまでも幸せに暮らした。
 また五郎太と友達になり、その後も度々筒井の郷の家に行っては、身を隠していた木の下でみんなで談笑した。
 この話を伝え聞いた近在の者も、それにあやかりたいと、その木の下に集まるようになり、いつしかこの木を「五郎太の木」と呼ぶようになった。
 そして「五郎太の木」を撫でるといさかいもなくなり、気の荒い子でも、優しい親孝行な子になると言う評判が立ち、家庭円満の象徴としてこの木を撫でに来る者が後を絶たなかった。
 その後、木はどんどん大きくなったが、ある時ひどい台風で木はぼっかり折れてしまった。

 けれども五郎太の子孫が、その木の種を持っていたのでまた植え直した。
 その木が、今の春日野道商店街の一番南の広場の山側から二本目の木と言い伝えられている。今でも家庭円満を願ってこの木を撫でに来る人が多くいると聞いている。

 この「五郎太の木」は春日野道商店街近辺でのお話です。
 春日野道と言う地名は、神戸に居留地が開かれるとともに小野浜に外国人墓地が設置されましたが手狭になり、籠池通り近くに新たに墓地を作ることとなりました。ここにあった春日野明神のためこの付近は春日野と呼ばれていたので春日野墓地と名付けられました。当時の主要幹線の西国街道から墓地に至る道で春日野道と呼ばれるようになりました。
 西国街道は古くは山陽道と呼ばれ、京と大宰府を結ぶ主要幹線でした。芦屋あたりで南北2つに分かれ並行して東西を走っていました。北側を本街道、南側は浜街道と呼ばれ2本の道は生田筋あたりで再度1本に合流し、本街道は大名行列が浜街道は庶民が利用する道でした。道標として一里塚が置かれ春日野道の五郎太の木の付近にもありました。