大安亭ロダンの狸

 このおはなしは、現在本当に実在する大安亭市場が、市場として誕生する頃の事を背景に、創作された民話で、大安亭市場の名前の由来などは史実に基づき作られております。 タイトルの「ロダンの狸」の、ロダンも、決してフランスの彫刻家の名前ではありません。
 それならなんでロダン?と、いう事になりますが、それは、読んでのお楽しみ。

 明治のはじめの頃、淡路島熊取山に、たいそう芝居の好きなタヌキが住んでおった。
 このタヌキ、いつも仲間を集めて、芝居の稽古をしておったそうや。
 それで、その仲間を連れて里に下りて、芝居をするのが何よりの楽しみやった。
 村の者も、このタヌキが芝居をしに来てくれるのをいつも楽しみに待っておった。
 そんなもんやから、夏祭りや、秋祭り、嫁取りなんかがあると引っ張りだこだった。
 今日もこのタヌキ、一日の芝居を終え山へ帰ろうとしたが、ちょっとだけ休んでからと、草むらで腰を下ろした途端、夜が遅かった事と、あまりの疲れで、そのまま翌日まで寝入ってしもうた。

 どのくらい寝たのか、行商の旅人が何やらペチャクチャと喋る声で目が覚めた。タヌキは、旅人の話に耳を傾けると。
「神戸の大安亭と云う小屋で、中村久米三郎と云う役者が、偉い評判をとってるそうや」
「ワシは知らんが、そんなんどさ回りと違うん?」
「何言うとんや。そんなもんやあらへんで。摂津や播州からも、ようけ見に来とるっちゅう事や。東京の、団十郎や、歌右衛門よりすごいゆうとったで」
「ヘエーそんなにすごい役者かいなー、その久米三郎って云うのは」

 旅人の話を途中まで聞いたタヌキは、思わず旅人の前に飛び出し
「その久米三郎と云う役者は、そんなに評判なんか?そんなに芝居がうまいんか?、それはどんな役者なんや?」
 と、必至に聞いたんや。狸が急に出てきたもんやから、行商はびっくりしたけど、
「私も人から聞いた話や、この目で見とらんから詳しい事は判らんわ、けど評判は大変なもんやでー」
と、答えた。
 このタヌキ、この事があってから、もしかすると、自分より芝居がうまいかも知れん≠ニ云う、中村久米三郎の事で頭の中が一杯になり、夜は寝れんわ、大好きな芝居まで出来んようになってしもうた。

 とうとう、このタヌキ、山を下り、神戸の中村久米三郎に逢い、勝負を挑む決心をした。 漁師に頼み、明石まで船に乗せてもらい、そこから大安亭を目指して歩いた歩いた、そして、やっと教えられた生田の森まで来た。
 生田の森の狸が、「その大安亭と云う芝居小屋なら、そこの生田川を渡った らすぐのところにあるよ」
と、教えてくれた。本当に、川を渡ってすぐやった。
 えらい大勢の人が居るところに出たんで、
「何のお祭りなんやろ。村の秋祭りでもこんなに大勢あつまれへん」
と、思いながら近づくと、そこが大安亭やった。
 後で聞いたんやけど、大安亭と云うのは、芝居小屋やのうて、もともとは浪花節の小屋や言うことや、「けど、いっぺん芝居もしたらどや」と、いう事で、芝居を呼んだらしいんや。
 それが、えらい評判で、いつも人で一杯や。大安亭の小屋だけやない。その周辺も、色々な店と人でいっぱいや。

 タヌキは少々、気おくれしたんやけど、一日がかりで淡路島から出てきたんや、ここは何とか中村久米三郎と決着をつけなあかんと思て、楽屋にもぐり込んだ。
 そしてタヌキは久米三郎に
「ワシは、淡路で誰にも引けを取らん芝居している、ワシとお前の、どっちが評判の芝居が出来るか勝負をしよう」
 と、一気にまくし立てた。そしたら久米三郎はいやに落ち着いて
「いいとも、お前が望むなら、望み通りにしてあげよう」
 と、以外に、あっさりと勝負を受けたんや。

 芝居は先にタヌキから始めることになりこのタヌキは、早速用意を整えると、いよいよ幕が引か れた。
 観客は、当然、久米三郎が出てくるものとばっかり思ってたから、タヌキを見て、何の事やら判らずポカンとしとった。ところが最前列に居た子供が「あれっ、たぬきや」と言うた。
 そしたら他の客も
「ほんまや、たぬきや。たぬきや。たぬきが芝居するんか?」
 言うて大笑いしだした。

 村では、誰でも「芝居をするタヌキ」のことは知ってるから、そんなことは言われた事が無い。
 このタヌキ、客席のざわめきで頭の中が真っ白になり、自慢の八畳敷きも縮み上がってしもうた。
「もうアカン、このままでは最後には、狸汁にでもされてしまう」と思い、慌てて舞台の袖に隠れた。
 その後はこのタヌキ、久米三郎の舞台をボヤーと、見とったが、さすが評判を取るだけのことはある。堂々しとって、せりふもしぐさも、タヌキのかなうもんではなかった。

 タヌキは、しよんぼりと、淡路に帰ろうと思てん。そしたら、久米三郎が呼びとめて
「しょげることはないで。私も若いころはな、自分が一番や思て、お前と同じ様な事をやった事もある、今は、私よりうまいもんは、日本中に、ぎょうさんいてると思てガンバってるんや。私もまだまだやけど。どや私と一緒に励んでみいひんか?」
 と、言われた。
 根っからの芝居が好きなこのタヌキ、迷うことなくこの一座で修行する事にした。
 それから何年経ったやろ、四国中国はもちろん、遠くは九州、北海道まで巡業した。その間、タヌキは血のにじむ修業をしたんや。

 そして、ある年の夏、一座は大安亭に戻ってきた。その時、狸も一座の人も驚いた。小屋より、西を流れていたはずの生田川が、何故か、反対側の東を流れ、新生田川と呼ばれ、その川の東側には、新大安亭と呼ばれる市場までが出来ていた、みんなは、小屋の場所を錯覚しそうになった。
 しかし、さすが、小屋の辺りの賑わいは以前にも増して、すごうなっていた。
 
 久米三郎はタヌキを呼んで
「今回の出し物は、お前が座長になってやってみい」と、言うた。
 タヌキは前のことがあるんで、うなだれたまま、返事が出来んかったんやけど
「心配をするな、今のお前なら大丈夫や」と、久米三郎に 言われたんで、しぶしぶ承知した。
 幕が引かれると、やっぱり「たぬきや。たぬきや。たぬきが芝居しとう」
 と、大笑いの渦が沸いた。
 けど、もう、今は、単なる芝居が好きと云うだけのタヌキとはもう違う、タヌキは一生懸命、芝居を続けた。やがて観客もシーンとなって舞台に引きつけられ、みんなかたずを飲んで見入っていった。
 それで芝居が終ったら、やんや やんやの大喝采となった。

 その芝居を見た事があると云う、ウチの親父も、
「すっごい、ええ芝居やった、あの堂々としたロダンの姿はすばらしい」
 と、えらい感動しとった。
 その頃から、両方の大安亭の人達が、そのタヌキの事を「ロダン」と呼ぶようになり、親父も「あの堂々としたロダンの姿は、死ぬまで忘れられん」
 と、云うとった。そんなもんやから、親父に
「たぬきでも、こんなに頑張って自分の望みを成就するんや。それやのに、今の若いもん云うたら、ほんま情けないわ。人間の若いもんも、もっと頑張らんかい」
 と、いつも言われたんや。
 それから何年もして、昭和十六年頃、戦争がはげしくなって、芝居小屋の大安亭はなくなってしもうたけど、戦後、大安亭と新大安亭の、両方の店屋さん達が、次々と集まって、「新大安亭市場」を復活させてん。
 2つの市場が1つになって、復活するのは奇跡であり、これは、両方の市場の人が、ロダンの精神を受け継いで いるから出来た事で、ロダンのおかげやと思っているんやて。

 そんな事で、今では、ロダンから受け継いだ精神は、神戸で、一番安うて、ええもんを売る事やと思うて頑張っているそうや。
 そうそう、狸の「ロダン」と云う名前やけど、ハイカラがはやった明治の話やけど、ハイカラに外国の彫刻家の名前を付けてもろたんとは、えらい違いなんやで。「ロダン」はあまりにも頑張り屋で、人間でもできん努力家やから、タヌキ、タヌキと呼んだらイカンと云う事で、両方の大安亭の人達が「ロダン」と呼ぶようになったんやて。それは、中国の古い熟語に「魯之男子」と云うのがあって、それを略してロダンと呼ばれたらしい、
 意味はなっ「物事を真似るのでなく、精神を学ぶ」と言う事なんやて。まさにロダンにぴったりの名前やなー。そやから、大安亭市場の人は、ロダンのたぬきは「大願成就の神様」や。頑張りの神様やと思っているそうや。

 今まで内緒になってる事やけど、ロダンの子孫がまだ大安亭市場に居るねんで。その狸を見た人は、今までの努力が報われて、運が向いて来たって喜んどったで。
  どんな良い事か?・・・それは・・誰も云えへんねん
今度、みんなも市場に行った時には気をつけてよう見てみ。
見つけたら運は自分のもんやから。

 「ロダンの狸」は現在の大安亭市場のお話です。
 大安亭市場の南側を出たところの東南に「吾妻まちかど広場」があります。花いっぱいのかわいい広場です。また大安亭市場と三宮あじさい通商店街の中間あたり、旧西国街道(本街道)沿いに「ロダンの狸広場」があります。ロダンの石像を置いていますのでぜひ一度ご覧下さい。