摂津名所図会で見るふきあい

摂津名所図会 巻七から葺合付近

法然松
 脇浜の磯辺にあり。伝へ云ふ、承元年中、法然上人讃州より帰洛の時、この地に泊まり、植ゑ置きたまひしとぞ。古松は枯れて、株三丈ばかり遺る。側に植ゑ継ぎの松あり。枝葉繁茂して蟠竜のごとし。ことにこの地風景佳なり
阿弥陀寺
 脇浜の村中にあり。栽松山と号す。浄土宗。本尊阿弥陀仏。開基は法入法師なり。法然上人帰洛の時、この浦人富松右衛門が家に宿らせたまひ、専修念仏の弘法を勧化ありて小松を海畔に栽ゑたまひ、われ本願末代に栄えなんしるしにといひたまふ。かの松右衛門も御弟子と成り、法入と改名し、我が宅を寺となし、阿弥陀寺と号し念仏の道場となしぬと寺記に見えたり。寺の什宝に山越鉦といふあり。法然上人、船中にてならしたまひ、念仏修行したまふ。
 その音、山を越えて殊勝に聞こえしより名とせり。この寺正しき旧跡なれぱ、ニ十五霊場の中に入るべきに、除かれし事不審なり。後世の所造か。後考をまつなり
天王塚 畔塚 和理塚
 ともに脇浜にあり。いづれも由縁不詳
名産灘酒匠[なだのさかや]
 五百崎・御田・大石・脇浜.神戸等にて酒造し、多く諸国へ運送す。これを灘目酒といふ。
名産灯油
 芦屋・野寄・住吉.五毛.熊内の五村、山水を樋にして水碓[みずぐるま]をもってこれを製す
生田二宮
 生田村にあり。生田明神裔神八前のその一なり葦屋荘六ヶ村の生土神[うぶすなかみ:鎮守]とす。
本社は八部郡生田にあり。次下に見えたり。

布曳滝[布引の滝]
 砂山にあり。雌滝・雄滝のニ流ありてあひ距つ事三町ぱかり、ともに岩面を流れ落つる事白布を曝ずに似たり。雄飛泉[おだき:おんだき]の高さニ十四丈、五段に折りて落つる。雌曝泉[めだき:めんだき]の高さ十八丈、同じく布を曳くに異ならず。地勝景偉衆郡最一の美観なり。飛泉の東に一つの小丘あり。
これを望滝台といふ。飛泉の水源、武庫山より流れて末は生田川と成る)
    『栄花物語』布引滝巻
 その頃、との、ぬのびきの滝御らんじにおはします。道のほどいとをかしう、さまざまの狩装束などいふかたなし。業平がいひつづけたるやうにぞありけむかし。


さらしけんかひもあるかな山姫の尋ねてきつるぬの引の滝  くわんぱくどの
水の色ただ白雪とみゆるかなたれさらしけん布引の滝     皇后宮太夫 顕房
めづらしき雲井はるかにみゆるかなよに流れたる布曳の滝   皇太后宮太夫 祐家
雲井よりとどろきおつる滝つせはただ白糸のたえぬなりけり   皇后宮権太夫 経信
水上の空にみゆれば白雲のだつにまがへるぬのびきのたき   三位中将 師通
立ち帰り生田の杜のいくたびもみるともあかじ布引の滝     権中将 雅実
よとともにこや山姫のさらす成る白玉われぬ布引のたき     中将 公実
水上は霧立ちこめてみえねども音ぞ空なるぬのびきの滝    播磨守為家
いくひろとしらまほしきは山姫のはるかにへたる布引の滝    いへつな


    『伊勢物語』云ふ
 このをとこなま宮づかへしければ、それをたよりにて、ゑふのすけどもあつまりきにけり。このをとこのこのかみもゑふのかみなりけり。そのいへのまへの海のほとりにあそぴありきて、いざ、この山のかみにあるといふ布引の滝見にのぼらんといひて、のぼりて見るに、その滝、ものよりことなり。(李白が魔山濠布の詩に、飛流直下三千尺、疑ふらくはこれ、銀河の九天より落つるかと。これ文勢なり)。長さ二十丈、ひろさ五丈ばかりなる石のおもてに、しらぎぬにいはをつつめらんやうになんありける。さるたきのかみに、わらうだのおほきさして、さし出でたる石あり。その石のうへにはしりかかる水は、せうかうし、くりのおほきさにてこぼれおつ。そこなる人にみな滝の歌よます。かのゑふのかみまづよむ、

芦のやのいさごの山のそのかみにのぼりて見れぱ布引の滝
我が世をばけふかあすかとまつかひのなみだの滝といづれたかけん

あるじ、つぎによむ。

ぬきみだる人こそあるししら玉のまなくもちるか袖のせぱきに

とよめりけれぱ、かたへの人、わらふことにやありけん、この歌にめでてやみにけり。

『続古』
山人の衣なるらし白妙の月にさらせる布ぴきのたぎ   後京極摂政

『千載』
水の色のただ白雲とみゆるかな誰さらしけんぬの引の滝   六条右大臣

『新古今』
久方の天津乙女の夏衣雲井にさらす布びきの滝   有家

『詞花』
雲井よりつらぬきかくる白玉をたれ布引の滝といひけん    隆季

『夫木』
布引の滝の白糸夏くれぱ絶えずぞ人の山路たづぬる    定家


 

 

  『平治物語』云く、
仁安三年七月七日、津国布引滝見んとて、清盛入道浄海をはじめとして平氏の人人下られけるに、難波六郎経房ばかり、夢見悪しき事ありとて、ともせざりしかば、傍輩ども、弓矢取る身の、何条夢見・物いみなどいふ、さるほめたる事やある、とわらひけれぱ、経房も、げにもと思ひてはしり下り、夢さめて参りたる由申せば、中々興にて、諸人滝を眺めて感を催す折節、天にはかに曇り、おびただしく霹靂鳴って、人々興をさます処に、難波六郎申しけるは、われ恐怖する事これなり。先年悪源太最後の言に、つひには雷となって蹴殺さんずるぞとて、白眼し眼つねに見えて六ケ敷に、かの人雷となりたりと夢に見しぞとよ。ただいま、手鞠ほどの物、巽の方より飛びつるは、面々は見たまはぬか。それこそ義平の霊魂よ。一定かへりさまに経房にかからんと覚ゆるぞ。さありとも太刀は抜きてん物をと、いひも果てぬに、霹靂 夥しくて、経房が首に黒雲覆ふとぞ見えしが、微塵になって死ににけり。太刀はぬきたりけるが、鐔もとまで反りかへりたりしを、結縁の為に、寺造りの釘になん寄せられぬ。おそろしなんども愚かなり。入道は、弘法大師の御筆を守りに掛けられたりしを、恟ろしさの余り首に懸けながら、うち震ひうち震ひぞせられける。まことに守りの徳にや、近づくやうに見えしが、つひに空へぞ昇りける。
(下略)

砂山(熊内村の上方にあり。山中に布引滝あるゆゑ、一名滝山ともいふ)
滝山古城(布引滝のうへにあり。天正中、松永久秀ここに拠る)

滝勝寺(熊内村にあり。布曳山と号す。真言宗。開基、役行者)
本尊馬頭観音(役行者の作。長一尺三寸。初め閻浮檀金、長一寸三分の像、布曳滝より出現したまふ。役行者これを感得したまひ、胸中に籠められ、いまの本尊をつくりたまふ)
大師堂(弘法大師の像を安置す)
八幡詞(滝勝寺の側にあり。この地の生土神とす[熊内八幡?]
清水(社頭にあり。名泉なり)
福井塚(熊内村にあり。由縁不詳)
旗塚(同村にあり。伝へ云ふ、むかし、源範頼ここに成を立てたまひしとぞ)
熊内牡丹(熊内村医生の家にあり。初めは高さ丈余の牡丹ありし由、いま枯れてなし。旧記に載せて名、世に高ければここに記す)

   『元亨釈書』日く
 釈慶日法師は平安城の人なり。叡獄に居し講学を勤む。その外、顕密内外の典に渉る。晩年に本山を出でて摂州菟原郡に住し、法華を調し密供を修す。方丈の草庵の外別館なし。経論・花器の外余具なし。持斎を欠かず、押酒を食らはず、あるいは雨夜に出行すれぱ、前に炬を持する人あり。後に笠を獻ぐる者あり。遠く人これを望み見る。走り近づぎてこれを見るに、炬笠なし。また、遠く避くれぱ炬笠さぎのごとし。あるいは、摺紳車馬の客、草庵に到って駢聞す。村人近く見れぱ、また人馬なし。遠く聞けぱ、喧雑の声もとのごとし。溘然として時に病無く、法華を誦し定印を結んで逝去す。忽然として、百千人の音ありて悲号鳴咽す。村民庵所に往いてこれを見るに、哭声を聞くといへどもその形を見ず。時の人みな日く、炬笠およぴ哭泣の人はみな、これ天神諸聖の冥感なりと。尊信せずといふ事なし。晋の仏図法師は鉢中に水を盛り、香を焼いて呪を修すれば、須臾にして鉢中に青蓮華を生ず。これらの奇特なるべし。