割塚古墳
割塚通の阪急とJRが接するあたりに石碑が建っています。この碑は割塚古墳の跡といい、ここに昔、古墳があったことを示しています。
割塚古墳はかつて、六甲山の南側にあった多くの古墳のひとつで、7世紀ころのものと推定されています。
16世紀後半になって豊臣秀吉が大坂城を築くのにこの古墳の石室の巨石のうちめぼしいものを運び去り、残石だけが打ち捨てられたと言い伝えられています。このことから古墳は割り塚と呼ばれるようになりました。いつのころからか古墳の上にお稲荷さんがまつられるようになり、割塚稲荷と呼ばれて地元の人に親しまれていました。明治の末ころまでは広い敷地に巨木がうっそうと繁っていたそうですが、市街化が進むにつれ荒廃が進んできたので土地の所有者が残念に思い、大正15年に古墳の石を使って「布敷首(ぬのしきのおびと)之霊地」の石碑を造りました。
これが現在の割塚古墳の跡の石碑です。石碑の側面には、和理塚(割塚)はかつてこの地域を支配していた豪族である布敷首の墓であるという意味の言葉が刻まれていますが、事実かどうかは確かではありません。
昭和10年に、阪急電鉄の高架が古墳の上を通ることになり、遺跡は取り除かれ、神社と石碑だけが西南約20mの現在の位置に移されました。神社の方は戦災で焼けてしまい、後に筒井八幡神社に移され、石碑だけが残されて現在に至ります。